難解な表現が意味深ではないという吉本隆明と大江健三郎の難解さ。

20120325吉本隆明は「芸術言語論」を作ろうと思ったそうだ。共同幻想論が意味不明だったのは自分たちの幻想的共同体の中だけで通用する言語を生み出していたからなんだろうな。
 マルクス主義の新解釈をしていたはずの吉本が死の間際に語った講演会ではアダムスミスの古典経済学がすばらしいと始まったのだから。
 マルクス主義を信奉していた人々は、自分も含めてどのように自己総括をするかが死を前にして問われてくるのだろう。
 しかし、アダムスミスから吉本が話を始めるとは、JRの幹部になっている革マル派も同じように自己の思想変化を語るのだろうか。
 共同幻想論は既成政党に対する批判だったのだろうが、何かをなそうとするときの共同体はいつでも幻想の中で形成される。
 日共を批判しながらその批判する共同体も幻想のなかで作られる。
普遍的な芸術。開かれた普遍性。芸術の価値は沈黙に近い独り言。自分にだけ分かる自己表出がすべてを表現する。
 やっぱりね。吉本の話は自分にだけわかる独り言か。HARRYに分からなくて当たり前だ。

 芸術は労働を加えたから価値があるわけではない。そりゃ芸術に限らないだろう。労働価値よりも交換価値だ、といいなおして自分の思想の転向を語っているだけか?

追伸20120325 23:56 吉本の転向論を聞きながら、ではHARRYの転向論は? いくつかのブログで書いてきたが、ここに簡単に書いておかなければ吉本さんに失礼になる。吉本隆明の共同幻想論をふりまいた昔の革マル派と論争してもそもそも当時、共同幻想論そのもを読んでも分からなかったから論争にはならなかったが。。。
 この吉本講演を聴いてからやっと理解した。難解な表現を整理すると単純なことを言っていただけということ。

 問題は自分たちは何をするために生まれてきたのか。生きるべき使命は何か。あるべき世を創るということは何か。
自分には何ができるのか。
 組織論で語ってきたのが今までの革命運動だ。その組織=共同体が後からつくられたものか家族から生まれたもともとの地域共同体を基礎に置くものか。という選択なのか。その選択であれば地域共同体のほうが強力だろう。
 しかし幻想共同体にこだわっていては維新は実現できない。いま、自分が闘える場所があればそこに闘いをつくるしかない。維新実現のためには言語論に拘泥する暇はない。吉本隆明に拘泥してきた評論家の時代ではないと言っておこう。

 
 

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