駒沢大学名誉教授田上さんの仏陀の話矛盾している。無の説明になっていない。

田上さんの仏陀の話をTVで見た。無とは仏陀が天地の創造神がいるということを否定して死んだら人の体はせいいぜい金歯が転がっているくらいでそれもその人ではない。無だ。といいながら、仏陀の死は永遠だそうだ。大般涅槃経では、 花は仏陀。果実は安楽。サラ樹林に花が咲き乱れ果実がたわわに実る。それが未熟な修行者に教えを与えている。というらしい。仏陀は不滅の仏。だそうだ。無じゃないじゃん。無をネットで検索するとすべてが無と書いてもいる。物体も物体でないものも無。万物の構成宇宙にある極微粒子が無。ということであれば見えないものは何もないという智こそ無知。人知で理解できないことが宇宙には無限に存在することを意識することこそ智ではないだろうか。仏陀が田上さんのように無を解釈したとはとても思えない。南無に対する解説もめちゃくちゃ。と感じた。弘法大師の真実に対する以下の書き方は敬愛するドンキホーテを思い出させる。
(弘法大師空海全集第二巻思想篇278頁) -------  真実と言うものは、解りにくくとらえがたいものである。これが真実だと思っても、他人から批判されたり、多くの反対にあうと疑ってしまうものである。 また、真実はどちらかと言えば、この世では通らず、現実肯定のみの考えが正当なものおだやかな意見として認められてしまう。 いつも妥協することを前提として考えるようにならされると、真実を見失っていってしまうものである。 如何なることにも屈せず、とらわれず、妥協を前提としないで、真実をとらえていくならば、正しい生き方を見出し、真実のことばを語ることができる。 しかし、いつも人の顔をうかがい、ごきげんとりを考えると、根本を見失ってしまう。あたりさわりのないことのみを語っていれば、楽しいかも知れないが、それでは根本を知らずに、あさはかに生きていくことにすぎなくなってしまう。 根本を見失ったことばは、いつわりのことばでしかない。私達の日常生活の多くは、このいつわりのことばのなかにしか、いないとも言える。 いつわりのことばでは、真実も根本も解らなくなるので、まよい、まどわされ、いつまでも苦しまねばならない。 つまらないことに、いつまでも悩まされることは、私達の日常生活にままあることである。そのことがいつわりであればあるほどにそのまよいからぬけ出しにくいものである。 単純ないつわりには、すぐ気づくけれども、複雑ないつわりになるとなかなか解き明かすことができない。 世の中が複雑になってきているだけに、そのような解き明かしにくいものが数多くある。 特に、権力によって、金の力によっていつわりを真実の如くに、とりつくろっているものも少なくないからである。 いつわりを強行している者も、そのために苦しまなければならないのである。 それに比して真実を語ることばは、苦しみの原因をとりのぞき、本当の安心と楽しみを与える力を持っている。「ペンは剣よりも強し」ということわざがあるが「真実は偽りを明らかにする」ということもできる。 私達が日常生活の中で、どうしてもうまくいかないことに出合ったり、いつわりのなかに苦しいんでいるのではないかと反省して真実をみい出だしていくことが必要でしょう。 若し、真実であれば苦しみをとりのぞいてくれるはずであるからである。 しかし、そうは言っても現実は逆で、いつわりの方が楽で真実に生きることの方が苦しみである場合が多い。それにしても、本来はそうではないのだ!勇気を出してしっかり生きなさい!とお大師様が私達に語りかけてくれている言葉です。(大日如来を検索したら出てきた)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック