「最後の総督府官吏」の“遺言” 朝鮮人とは仲良くやっていた

2018.2.4 12:20
【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(4)
「最後の総督府官吏」の“遺言” 朝鮮人とは仲良くやっていた

朝鮮人の同僚(両端)と(西川氏は右から2人目)
 昨年8月、102歳で亡くなった西川清(きよし)は、「最後の朝鮮総督府官吏」というべき貴重な証人だった。

 大正4(1915)年、和歌山県出身。地元の林業学校を出て昭和8年に、日本統治下の朝鮮へ渡った。複数の郡の内務課長を歴任し、朝鮮人の徴用などに直接、関わった経歴から、慰安婦や徴用工問題をめぐる今の「韓国人らの言い分」が、どれほどウソとデタラメにまみれているか、身をもって知っている。

 虚偽のことが世界中に流布されてゆくことを黙って見過ごせなかった西川は100歳近くになって、安倍晋三首相宛てに事態を憂う手紙を送り、自身の体験をつづった本(『朝鮮総督府官吏 最後の証言』桜の花出版)も書いた。私が昨年6月に取材に訪れたときは耳が遠いくらいで元気そうに見えたのだが、西川は「秋にはもう私はいないだろう」と語り、残念ながら現実になってしまった。

 西川は、日本人に何を訴えたかったか。生前インタビューを行った一人として、それを伝える義務と責任がある。西川が遺(のこ)したメッセージは、慰安婦や徴用工問題だけではない。戦後、70年以上が過ぎた現在では、日本人も韓国人も、うかがい知ることができなくなった日本統治時代の朝鮮社会の「雰囲気」というべきものだった。

 そのひとつが、「日本人と朝鮮人は、ごく当たり前のように仲良くやっていた」ということである。
平穏だった社会生活

 朝鮮に渡り、中部日本海側にある江原道(県に相当)産業部に配属された西川は昭和11年、朝鮮総督府の地方官吏養成所の1期生に選ばれる。13の道から計50人、江原道からは西川ら5人、うち2人は朝鮮人だった。「各道を代表してきた若手の秀才ばかり。九州帝大を出た人も2人いました。朝鮮人は全体の半分近くを占め、極めて優秀な人がそろっていました」

 養成所を優秀な成績で卒業した西川は、兵役を経て、28歳の若さで江原道寧越郡の内務課長に任命される。人事や総務を司(つかさど)る枢要ポストで本来は“たたき上げ”が定年前に就くことが多い。上司の郡守(首長)は朝鮮人、郡の上部組織である道の部長クラスも、ほとんどが朝鮮人だった。


 「上司にも部下にも朝鮮人はいましたね。見かけは変わらないし本当に仲良くやっていました。当時を知らない今の人が『怖い、恐ろしい時代だった』などというのはウソですよ。戦争が始まってからも空襲はなく犯罪も少なく物資は豊富で穏やかな生活がずっと続いていたのが真相です。独立運動は“地下”で続いていたのかもしれないが、少なくとも表面に現れることはありませんでした」
西川が持ち帰った写真には、朝鮮人の同僚と一緒に花見や野球を楽しんだり、親しげに肩を組んだりしたカットがたくさん残されている。「日本は立派な統治をしたと思う。(略奪が酷(ひど)かった)西欧の植民地支配とは違い、日本は朝鮮に多大な投資をした。『土地を奪った』という非難も当たらない。従来、あいまいだった朝鮮の土地を、日本が測量・登記し、権利関係を整理したのが本当です」

 耳に入らないわけが…

 くどいようだが、統治する側とされる側が同じ歴史観を持つことはできない。旧制六高から東京帝大法学部を出て昭和9年の高等試験(行政科)に合格、「キャリア組」として総督府に入った任文桓(戦後、韓国農林相)は戦後出版した自著で、日本人の同期とは出世、待遇などで差別を受けたとした上で、日本に従うフリをする“曲芸師”だったと書いている。

 ひとつには、中央の総督府と、朝鮮人の官吏が多かった地方官庁(西川は道や郡の官吏だった)との雰囲気の違いがあったのかもしれない。

 だがコト、慰安婦問題や徴用工問題に対する見解となると、西川は一歩も引かない。インサイダー(内務課長)として、詳しく実情を知る立場にあったからだ。

 西川は、寧越郡の後、さらに規模が大きい原州郡でも内務課長を務めている。

 例えば、戦時の労働動員である「徴用(募集、官斡旋(あっせん)の段階を含む)」は総督府→道→郡→邑(ゆう)・面(町村に相当)のラインで実施された。その“真ん中”にいた西川は募集にかかわり、日本へ向かう朝鮮人労働者を釜山まで送っていった経験もある。「殴る、蹴るで無理やり連行したなんて、とんでもない。ちゃんと面談し、労働条件を示した上で、納得ずくで日本へ働きに行った。給与などの待遇も悪くなかったでしょう」

 西川によれば、当時の朝鮮には、カルボチブ(売春宿)、スルチブ(居酒屋だが、売春婦を置いている店もあった)と呼ばれる店が街ごとにあった。慰安婦になったのはそうした女性が多い。民間人が需要に応じて連れて行ったのである。「もし、日本の官憲が、朝鮮人の若い娘たちを強制連行したならば、通達文書が残っているはずですが、そんなものはないし、私の耳に入らないわけがない。警察官には朝鮮人も多かったんですよ。無理やりそんなことをすれば、大騒ぎになっていたでしょうね」

 終戦時、江原道庁勤務だった西川は道庁所在地の春川に住んでいたが、朝鮮人の民衆から自宅の扉をたたかれることがあったくらいで、略奪や暴行の被害を受けることはなかった。

 戦後、和歌山県庁に勤めた西川は1980年代以降、降って湧いたような慰安婦問題などの騒ぎを信じられない思いで見ることになる。平成25年、安倍首相宛てに手紙を認(したた)めたのは、真実を知る者の“遺言”というべきものだったが、返事は来なかった。世界中にばらまかれたウソやデタラメは一向に収まる気配はない。泉下の西川の無念はいかばかりか。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)
http://www.sankei.com/life/news/180204/lif1802040033-n5.html

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