シナのスパイを愛人にしたとか、米国債を売りたいと日本の総理としては傑出した政治家であった橋龍

死因不明の橋龍。殺したい勢力はbeichaiどちらにも居ただろう。
なかなか魅力的な橋本龍太郎  政治家としての評価 Wikipediaから
「見識はあるが、人望はない」が党内での一般的な評価。政界随一の政策通として知られ、いささかの揶揄を込めて「課長補佐」などといわれるほど、各政策部門の細かな部分まで精通していたが、何かわからないことを聞いたりすると「おや、そんなこともおわかりにならない?」、「あなたが知らないことを、どうして私が知っていると思うのです?」などと必ず嫌味な返答をしたとされる。花街で最も嫌われている政治家という不名誉な噂もあった。また、派閥と子分の面倒を見たことがほとんどなく、前述の自民党総裁選で橋本擁立に奔走した小渕派の幹部からも「橋本さんは水耕栽培だから」と揶揄された。橋本の兄貴分である竹下登は「怒る、威張る、拗ねるが橋本になければ、とっくの昔にアイツは総理になっていた」と評した。田中角栄は「橋龍は、こまっちゃくれた風切り小僧だ。備前長船の出身。切れそうだけど、あの手は人様に好かれない。親父の龍伍は切れ味抜群だったが、仲間がいなかった」と評した。梶山静六は「橋龍というのは遠くで見ている富士山」と評したことがある。つまり近くに寄って接していくと理論に走りすぎたり、白黒をはっきりさせないと気のすまない性格で欠点ばかりが目立つというのである[58]。 小沢一郎は「龍ちゃんは一人で遊ぶ。だから友達ができない」と述べている[59]。この性格に関して当選前の龍太郎の猛勉強ぶりとその後の行動をみていた俵孝太郎は、父の龍伍が障害者だったことから、健常者に負けないという障害者を抱えた家族特有の気負いが強かったことが生意気と言われながらも、シャイで涙もろい要因だったのではと著書で分析している[60]。

橋本の総理大臣時代に幹事長代理として仕えた野中広務は「橋本さんは当選1回、2回の議員との接触がほとんどなかった。若手議員の面倒を見てやれず、(2001年の)総裁選敗北になったのではないか」と著書で語っている。田中派、竹下派と最強派閥に属していた割には、閥務に関心を示さなかった背景に、「自分は本来佐藤栄作の弟子であり、田中角栄は師匠というより組織の中における上司、竹下登は同じ佐藤の弟子の中における兄貴分であって、腹心ではあるが子分ではない。」という意識だったのではと分析がある[61]。

政界で唯一の友人と言えるのは同期当選で同学年の小渕恵三で、お互い「龍ちゃん」「恵ちゃん」と呼び合う仲で「当選以来お互い騙し騙された事の無い仲だった」と語っている[注釈 6]。また、橋本を取り巻く数少ない側近には、斎藤十朗、山東昭子、藤井孝男、熊代昭彦[注釈 7]らがいた。河井克行は橋本を師と仰いでおり河井と河井案里の結婚式の仲人は橋本が務めたが、のちに夫妻ともに公職選挙法違反で逮捕された[62]。

政治評論家の浅川博忠は、橋本が初当選の頃の後藤田正晴を「後藤田君」と呼んでいたという逸話を紹介している。後藤田は当選回数では橋本より下だが、23歳年長で警察庁長官・内閣官房副長官を経験していた[63]。また田勢康弘は、水俣病問題への対応の末に自死した山内豊徳(環境庁企画調整局長)の遺族に心のこもった手紙を宛てたエピソードなどを紹介しつつ、「橋本には『使用説明書(取扱説明書)』が必要だと常々思っている」と評している。この手紙の内容を知った佐高信は「(生意気、キザと思っていた)橋本に対する見方が変わった」という [64]。

田中秀征は橋本内閣の経済企画庁長官時代に普天間基地返還問題に関して橋本が、「戦中も戦後もわれわれのために大きな苦難を担ってくれた沖縄の人たちに、できる限りのことをするのは当然だ。」と発言したことに身震いするような感動を受け、それまでキザなイメージが強かった橋本への人物感を改め尊敬するようになったという[65]。

久美子夫人はインタビューで「実はわりと涙もろい人なんです」と橋本を評している。結婚するとき夫人は橋本に映画「愛情物語」を観ようと誘い、映画の主人公を自らに重ね合わせていたという[66]。橋本は、95年の総裁選で総裁に選出された際、うっすら涙を浮かべていた。通商産業大臣に就任した塚原俊平は、橋本に会の報告に行った際の様子について、「ただ『有難う』といって、『僕も疲れたよ』とそんな感じでした。でもその後聞いたら、我々が帰った後で涙を流して喜んだということでした。おかしな人ですね。それなら私たちの目の前で喜べばいいのに。それが彼のシャイなところというか、パフォーマンスが下手な人ですね。」と述べている[67]。最後に総裁選に出馬したころは、テレビ座談会で司会の久米宏に「睨まないでくださいよ」と言われて「睨んでないですよ。優しい眼差しを投げかけているんじゃないですか」と切り返す余裕も備わっていた。

早くから自民党および田中派のエースと目され、重要ポストを歴任し首相に就任したが、退任後は派閥の会長に就任し総裁選に再度出馬も落選、スキャンダルで引退を余儀なくされそのまま翌年死去と、華々しいキャリアの割にはいささか寂しい晩年であった。

マスコミからは「芝居上手」ともいわれていた。芝居がかった喋り方などの特徴から「橋龍さんは非常に芝居が上手い」等ともいわれていた。首相時代に自民党のCMにも出演していた際にもその様子が窺える。

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